kakikenです。
今は本当のことを言ってはいけない世の中なんだろうな。
事実としてもね。
差別とかすぐ噛みつく輩。
そのくせ自分たちの主張は『表現の自由だ』と振りかざす。
面倒だな。
そういうのはドラマ制作とかでも影響がある。
特に力も金もない民放は、そういうクレームを今は必要以上に怖がっている。
私もプロデューサーとの打ち合わせで何度も「クレーム来るからダメ」とか言われたことあった。民放の限界を感じだよ。
では、やさしいウソだけついていればいいのか?
偽善だけが蔓延する社会が理想なのだろうか?
昔は良かった。ドラマに関しては確実に言える。
間違いない事実。
作り手の努力不足だろって?
まあ、そうかもしれないけど。
私も無意識に採用されないようなものより採用されやすい、小さくなったものばかり発想するようになってしまっている。
それだと「ありきたり、つまらない」と。
『半沢直樹』が受けるのはまだ毒があるからだろ。
その毒の部分に共感するんだろ?
あれはあれですごく下品だなって思ったけど。
土下座しろ~なんてね。
でもあのドラマには生ぬるいやさしいウソはない。
だから受けるんだ。
結局蔓延するやさしいウソの風潮、誰も本心は求めていない。
『半沢直樹』はそういう意味では何でもありだった昭和のドラマ。
当時大うけしたTBSの大映ドラマの流れなんだよね。
鎌田敏夫氏はセリフが好きかな。うまいと思う。
山田太一氏は作風そのものは静かな印象なんだけど、
中身はすごくエッジが利いているというか、荒々しいんだ。
私が一番衝撃を受けたのが『男たちの旅路』。
その中の「車輪の一歩」という話。
警備員の主人公たちが車いすの若者たちの力になろうとする話。
今でいえばバリアフリーがテーマ。
昭和の時代だから今のように全然理解がない時代だ。
その中でも一番印象にあるのが次のシーン。
(うろ覚えなので正確に知りたい人は調べて)
主人公の警備員の男が、車いすの女の子とデート?する。
しかし突然「帰りたい」と言われる。
つまらないのかな?どうして?と理由を聞くと
女の子は恥ずかしそうに「トイレにいきたいの」と。
(もしかしたら漏らしていた?)
男の人に、トイレに一緒に来てと頼めるはずがない。
男は自分のそれまでの偽善的なやさしさに気づき、打ちのめされる。
そして真剣に力になろうと心変わりする。
あれはすごかった。『そこ描きますか?』って。
デリケートな部分を、無駄なく表現していた。
それを見て「ああ、自分は世間におもねっている」と痛感させられた。
私が無能なだけかもしれないけど、私はこの発想はないと思った。
デリケートなものを避けようとしている自分が情けなくなった瞬間だった。
やさしいウソを言わなければいけないような風潮の世の中。
誰もそんなものを求めていない気がするのだけど。
ひとにやさしく。
大切だよ。
でもそれを押し付けようとすると、
逆効果なんじゃないの?
やさしいウソは書かない。
私はそうしている。
しかし受け入れられない現実。
単に私が表現者として未熟、下手くそなだけなんだろうけど。